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和訳の記録保管用

ミュージカル Rebecca 2.Du Wirst Niemals Eine Lady 補足1

 前回の記事の曲で、訳しているときに面白かった点や解釈に自信がない点、また原作との比較などを書いていきたいと思います。原作から引用をするときは、基本的には昭和46年発行、新潮文庫、大久保康雄訳の旧版からです。

 

 ヴァンホッパー夫人の態度の違いについて

 私は日本版のミュージカル→小説の翻訳新版→翻訳旧版→ドイツ語版のミュージカル(CDや映像)という順番で『レベッカ』という作品に触れています。

 なので最初にミュージカルを見たときはあらすじくらいしか知らない状態であまり細かいところまで見れていなかったと思うのですが、あらためてドイツ語版を読んでみると、日本版で最初に見たときはヴァンホッパー夫人が「わたし」を顎でこき使っている印象が強かったのが、ドイツ語版では夫人が自分では良かれと思って「わたし」にレディとしてのふるまい方をガミガミ言っているのが目立ちます(ただしそれが図々しく振舞え、目下の人間には頭ごなしに命令しろ、といったいまいちずれたアドバイスなので、余計なおせっかいなのですが)。

 これは、コンパニオンという職業が身の回りの世話をする使用人というよりは、上流階級の夫人の話し相手としての役割が強く、この職業に就く婦人もアッパーミドルクラス(中流階級の中の上位階級)以上の出身だけれども家族を亡くしたなどの理由で自分で生計を立てなければいけない場合が多かったとのことから、夫人も「わたし」に使用人としての仕事だけではなく、自分の相手が務まるように階級の高い人間の立ち居振る舞いを覚えさせようとしていると思われます。ただ、『レベッカ』の主人公の生い立ちや階級については父母を亡くして生活のためにヴァンホッパー夫人に雇われていること以上のことは書かれていません。(英国文学やイギリスの階級制度について研究しておられる新井潤美さんの著作の中で『レベッカ』の中ではなぜ他の英国文学に比べて階級制度にまつわる要素が薄いのか触れていた箇所があったと思うのですが、手元に本がないため確認することができず・・・。著作が何冊もあるのですが、メリーポピンズなどの児童文学と階級制度を絡めてあるものや、使用人の仕事や地位体系について書かれている本などどれも面白いです)。

 それに対して原作では、「わたし」が夫人との関係について「わたくしの主人なのですわ。わたくしを、ほんとうの『お相手』に仕上げようとしているんです。・・・」(上巻p45)(原文では"... she's an employer. She's training me to be a thing called a companion, ...")とマキシムに説明しているのでコンパニオンとして雇われてはいるのですが、夫人としては「わたし」によくしてやっているつもりのミュージカルに比べて、扱いがぞんざいです。これには理由があり、かつて夫人と「わたし」は親子に間違われたことがあり両人ともいたたまれない思いをしたため、夫人は他人の前では特に「わたし」を大した存在ではないと示すためにこうした態度をとるのだという説明が語られています。

 加えて、ミュージカルが尺の都合上エピソードを短くまとめられているのはもちろん、原作は主人公の「わたし」による完全な一人称の小説であるのに対し、ミュージカルはどうしても観客が客席から第三者として観る形になるので、ウェイターが夫人と自分に対してあからさまに態度に差をつけることへの「わたし」の嫌悪や、夫人が好奇心によってずけずけと他人の領分へ踏み込むことに対して「わたし」が感じるいたたまれなさは原作のほうでこれでもかと語られることになります。

(閑話:原作では、好奇心の強すぎる夫人に対する周りの態度に自分がいたたまれなくなる状態を「わたし」は「まるで自分を、主人の苦痛を代って引き受けなければならない「王子さまのお相手」のように感じた。」(上巻p23)と表現しているのですが、聞きなれない表現だったので原文を当たったところ、whipping boy(王子が何か悪いことをしたけれども王子を鞭打つわけにはいかない、そこで王子の代わりに彼の友人や小姓などを鞭打つことになっており、そのために用意されている少年のこと)の訳でした。)

 ただミュージカルでは原作にはないやり方で二人の関係の不均等さを示していて1つ目はこれがドイツ語原詩であることによる互いへの呼びかけの違いです。ドイツ語の二人称には2種類あって、あまりよく知らない相手や目上の人に対するSieと、親しい相手や時には馴れ馴れしさもあらわすduがあります。「わたし」から雇い主であり年上でもある夫人に対してはSieで呼びかけているのに対し、夫人から「わたし」に対する呼びかけはduです。

 また、2つ目にミュージカルなので夫人のセリフはもちろんほとんどが歌として表現されるのですが、彼女が「わたし」に話しかける歌の中にはmein Kind(直訳すると「私の子ども」ですがここでは「お嬢ちゃん」と訳しました)やDarlingといった、一見親しげだけれども相手を下に見ている呼びかけがテンポよく何度も出てきます(おそらくmein Kindがこの歌の中で7回)。この呼称で、夫人が「わたしのこと」を内気で自分のアドバイスを呑み込めない半人前として扱っていることが印象付けられます。

 上記色々とまとまらず書いてしまいましたが、ミュージカルと原作の夫人を比べると、図々しく探り屋で「わたし」を見下しているのは共通していますが、ミュージカルの夫人の方が、一応(言葉の上だけでは)主人公のためを思って口出ししている、マキシムを詮索するいたたまれない会話も歌に乗せてコミカルな場面になっている、主人公に文句を言うときも原作ほど厭味ったらしい言い方ではないなど、憎めない人物になっています。

 この違いは一幕の後半に大きく響いてきて、原作ではモンテカルロ以降登場しないヴァン・ホッパー夫人が、ミュージカルでは「わたし」の唯一の招待客としてマンダレイの仮面舞踏会に再登場します。ここで再登場させた理由は、前後の展開がシリアスなので盛り上がるコメディソングを入れたい、また、マンダレイの外の人間を配置することで主人公が仮装して降りてくる場面を劇的にしたい等の理由があると思うのですが、逆にそれらの理由で夫人をここで再登場させるために、「わたし」がまあ、他に呼ぶ人もいないしあの人を呼んでもいいかな・・・と思える程度にモンテカルロの場面での憎らしさを抑えて愛嬌のある人物にしておこうという計算かも?ともおもいます。

 長くなりすぎたのでこまごまとした補足はまた別日に書きます。

 

*1

*1:デュ・モーリア、『レベッカ(上)』、大久保康雄訳、新潮文庫、37刷、昭和46年10月30日発行